職人紹介


初代亀一、二代目清司、三代目周士


私(周士)は祖父から私で三代続く桶屋の職人の家に生まれた。祖父は京都の老舗たる源に10歳の頃より丁稚として勤め45年ほど奉公したのち独立京都白川に中川木工芸を開いた。60歳で自分で定年を決め、あとを私の父である中川清司に譲り自身はその後、鉋を握ることなく隠居生活をして72歳で人生を閉じた。 その工房は今も父、中川清司が引き継いでいる。中川清司は桶職人としての仕事をしつつ、黒田辰秋の勧めや竹内碧外に師事したことをきっかけに、日本伝統工芸展へ精力的に出品し工芸作品を制作するようになる。2001年、それらの取り組みが認められ59歳のとき重要無形文化財に認定され今に至る。

  私、中川周士は1992年京都精華大学造形学部立体造形卒業とともに家業である桶屋の修業に入る。同時に大学で学んだことをベースにコンテンポラリーアートの制作を始め個展やグループ展、コンクルールにて作品を発表する。
 父が重要無形文化財保持者の認定を受けたのをきっかけに自身の工房を2003年滋賀県滋賀郡志賀町(現大津市)に工房を開く。
祖父は京都一の桶職人と呼ばれるような人だった。私自信一緒に作業台を並べることはなかったのだが、仕事場が遊び場でもあった私にとって祖父の仕事している姿が美しいと感じるほどの存在だった。飛散るカンナくず、リズミカルに奏でられる切削の音…職人である祖父はある種の憧れの存在であった。
一方父はその桶づくりの技法を生かした作品づくりに打ち込み、柾合わせ という新しい技法を編み出した。父とは毎日作業台を並べ仕事をしてきた、父は私の目標であり乗り越えなくてはならない存在でもあった。父の背中を追いつつ10年余りの時間が過ぎた・・・ その間私は職人としての仕事をしながらアート活動にも精力的に取り組んでいる。月ー金、朝9時から夜10時まで(土曜休みにするため夜も仕事をしていた)桶職人として働き、金曜10時からアートをアトリエに泊まり込んで日曜の晩まで制作を続けた。
職人としてまっとうした祖父の姿と職人であり作家である父の姿に共鳴と反発を感じつつ過ごした10年である。
その後の10年は職人として、自身の工房の充実に励み、アート制作からも離れる時期が増えていった。それが今、一昨年より出品し始めた、観○光という展覧会で桶の技法を使ったアートを制作するようになり、木桶をアートオブジェとして海外の展示会に発表するようになった。
その状況が、今まで考えないようにしていた”職人と作家” ”美術と工芸” ということを考えざる状況となってしまったのだ。今まで私の中に美術と工芸、作家と職人という立場が交錯しまるでジグソーパズルのような様々なピースが蓄積されてきた。これを今まで見て見ぬような形で放置し続けてきがとうとう最近それを組み立てていかなくてはならないという切迫感のようなものがある。
パズルのピース
学生の頃、合評の度「お前の作品は工芸的だ」という、私の家業をよく知る教授たちに指摘されていた。私はその意味を当時理解できず、トラウマのようにその言葉だけが残った。その後の製作では、なるだけきれいな仕事を避けるようになり技巧に凝ることもなくあえて荒削りで感覚・感性に訴えかけるような作品を作り続けた。

哲学と美術の関係に興味を持ち、哲学の本を読みつつ制作をしていたころ(と言っても翻訳の解説だったりろくなものを読んでなかったかも)美術が美術として成立している純粋美術に憧れ当時台頭してきたサブカルチャー美術を痛烈に批判していたのを思い出す。今は少し考えが違うが・・・・
2003年私は運よくパブリックアートの作品を制作?する機会を得た。千葉県の蘇我市にある商業施設にあるモニュメントだ。予算は数百万円、私自信はアイデアスケッチと簡単な図面を描いたデザインヒィーは10%実制作はモニュメントなどを制作する会社に依頼(注文先からの斡旋があった)・・・モニュメント制作には構造計算者などの建築基準への適合が必要なためその技術を持たない私自信にそれを制作するすべはなかった。何度かの打ち合わせと制作指導の名目で制作現場にも立ち会った。よだれのでしそうな最新機器と多くの熟練の職人さんたち・・・私のアトリエとは天と地ほどの差がある。その中で私の作品は、無事完成し、除幕を経てキャプションには制作者として私の名が刻まれた。それは紛れもなく私のアイデアスケッチから生まれた私の作品である。しかしなにか違和感を感じつつその場を後にしたのを覚えている。